連載 デジタルとアナログをブレンドする学び第3回
しびれを切らして大きな薪を積むと、火は消える
序章で私は、教育を火起こしにたとえた。このたとえは、六年経ってもそのまま使っている。ただし、見ているところが少し変わった。
前回は、六年前の本で外れていたところの話をした。今回は、変わらなかったところを書く。
序章で私は、教育を火起こしにたとえている。
いきなり大きな薪に火を近づけても
本にはこう書いてある。
僕はよく山で焚火をするのですが、着火剤を入れないで、種火から徐々に火をつけます。いざ火をつけようと思って、いきなり大きな薪にライターの火を近づけてもうまくいきません。
杉の枯葉に火をつけて種火にし、杉の皮、小枝と、少しずつ燃料を大きくしていく。そしてこう続けている。
しびれを切らして早めに大きめの薪を積んでしまうと火は消えてしまいます。
火は子どもの学習意欲、薪は教材や課題だ。苦手な教科でいきなり難しい教材を渡すと、うまくいかない。少しやる気が見えたからといって、分厚い参考書を渡しても、すぐに火は消える。
このたとえは、いまでもそのまま使っている。 六年分の事例が増えただけで、直すところがない。
もう一つ、これも変わらない。
まだ遊び足りない子は目一杯遊ばせたほうがいいです。よく遊ばせると、しばらくしてかならずお尻に火がつきますから。
これを信じられない保護者の方は多い。気持ちはわかる。だが、遊び足りない子に薪を積むのは、やはり早すぎる。
見ているところが変わった
ただ、この六年で、自分が何を見ているかは少し変わった。
本を書いたころの私は、火をつける側の話をしていた。どの順番で何を積むか。いつ風を送るか。先生が、あるいは親が、何をするかという話だ。
奥多摩の古民家で、毎月焚き火の会をやってきた。中高生が前の夜から泊まり、薪ストーブを焚いて、朝を迎える。朝になると、車で来る子や電車で来る子が合流する。
あるとき気づいた。
最近、焚火を管理した覚えはなくて、誰かが必ず木を準備してくれる。
私が薪を継ぎ足していない。それでも火は消えない。レイくんが他の子を誘導しているのだろうけれど、いつの間にか、誰かが火をつけることが習慣になっていた。子どもの方も、嫌がりはしない。
これは、本には書けなかったことだ。
火起こしの話は、どうしても「一人の大人が、一人の子どもの火をつける」話になる。だが実際には、火のある場に子どもを置くほうが、はるかに手間がかからない。
もう燃えている子のとなりに、まだ燃えていない子が座る。それだけで変わることがある。大人が何度言っても動かなかった子が、同じ年の子がやっているのを見て、黙って手を動かしはじめる。
因果関係はわからない。うまくいえないが、そういうことが起きる。
オンラインでも、同じことが起きる
これは山の話だけではないと、いまは思っている。
毎週のオンラインのレッスンでも、同じことが起きる。画面の向こうで、他の子が大きな声で音読している。それを聞いているうちに、黙っていた子の声が大きくなる。
六年前の本では、オンラインを「一人で自由に学べる道具」として書いていた。それは半分しか当たっていなかった。
一人で自由にできることは、確かに強みだ。だが、火は、一人でいるところではつきにくい。
だからいま、基礎クラスは決まった曜日の時間に、他の子と一緒にやる。漢字や計算のコースは、いつでも見られるようにしてある。この二つを分けているのは、そういう理由だ。
自宅で使える教材を探しているなら、ひとつだけ見てほしいところがある。
それをやっているとき、子どものほかに、誰かがいるか。
新しい道具を探すとき、どうしても中身を見比べる。私も比べる。だが六年やってみて、差が出たのは中身のほうではなかった。
とはいえ、うちのオンラインも、画面を切ればそこで一人になる。そのあと机に向かうかどうかまでは、私には見えない。そこをどうするかは、正直まだ手探りでやっている。
この記事で触れた教材
音読・暗算・漢字・計算の動画とプリントがあります。まず試してから決められます。